心にのこる物語

名義変更しておくれ

物語(日常茶飯事) 2009年5月27日

少し、緊張しているのか、それとも、几帳面な性格なのか、定かではないが、何か重々しい雰囲気の来訪者であった。

昨今では珍しい和装の姿態がわずかに歪んで見える。
歳のせいでもあろうか、背筋をしっかり伸ばしているようだが、なんとなくぎこちない印象である。

おもむろに口を開き、紙切れを一枚差し出した。
「名義変更しておくれ。」
外見からは想像もできない、ぶっきらぼうな口調に驚きを隠せない。

「亭主がなくなったので、私の名義にして欲しい。これでできるだろう。」
太く響くしわがれた声を耳にして、改めてその容姿に目をやる。
口調だけでの驚きではなさそうである。

「ご主人が亡くなられたということですか?」
「自筆証書遺言ですかね。拝見しましよう。」
「これは、遺言書としては使えないですねえ。無効です。」

《「全て、妻に相続させる。」とはあるが、他にこれといった記載がない。》

※遺言
遺言は、遺言者の死亡の時からその効力を生ずるため、効力を発したあとに遺言者の意思を確認することはできない。
遺言の解釈について混乱を避け、遺言者の真意を確実に実現させる必要があるために厳格な方式が定められている。
その方式に従わない遺言はすべて無効である。
(遺言の方式)
第960条 遺言は、この法律に定める方式に従わなければ、することができない。
(自筆証書遺言)
第968条 自筆証書によって遺言をするには、遺言者が、その全文、日付及び氏名を自書し、これに印を押さなければならない。
2 自筆証書中の加除その他の変更は、遺言者が、その場所を指示し、これを変更した旨を付記して特にこれに署名し、かつ、その変更の場所に印を押さなければ、その効力を生じない。

「どうすりゃ、いいんだい。」

「そうですね。まずは相続人についてお聞きする必要がありますが、・・・」
「・・・お子さんはいないということですか。すでにご両親はお亡くなりになっている。」
「なるほど、なるほど、もしかしたら、ご主人には、ご兄弟姉妹がおられるのですか。遺言の必要性が特に強い状況だったのかな。」

「誰も、いないね。もう、誰も。」

「そうですか、そうだとすると他に相続人はいないということになるので遺言書がなくても、相続登記は可能ですよ。」

「必要書類は、・・・《※一般的な相続必要書類について→相続の必要書類等》・・・となります。」

こう書けば、いとも簡単に遺言が無効であること、また、必要書類について理解されたように思えるが現実はそうは甘くない。
納得していただけるには多くの時間を必要とした。

面談も幾日にもなった。
遺言が無効であると説明しても、それだけで納得いただけるものではないことを私は知っている。
先ずは心から彼女の物語を聞かねばならない。
興味をもって心を開きいつものように聞き入ることになるのだ。

そして、語るご本人には申し訳ないが私は潜在意識には残しながら、まるで筒井康隆氏の小説「時をかける少女」の一夫が和子の自分に対しての記憶を消し去ったように私は物語の全てを記憶から消していく。

感情移入しやすい性格と職業上の守秘義務とで苦悩し続けたことが起因しての習性なのかと自嘲しながら、・・・

時に「ぶっきらぼうに」時に「古めかしく、かなしげな女性口調」に老婆の声音は変わる。

「戦後間もなくパーマ屋をはじめたのだけど、今の自宅(相続物件)の向い側の駐車場の位置でね、はじめたのさ、ロッドをね、炭を入れたクリップのようなものではさんで加温してね、・・・」
「そりゃあ、女が商売するのだから、最初は辛いことばかりでね。でも、美容室は商売としては良かったね。」
「髪結いの亭主とは、うちの亭主のことを言うんでしょうね。」
「いや、いや、もうできませんよ。仕事なんか。」
「自宅の名義はね、亭主だけど、この物件(自宅)のお金はすべて私が出したのだから、名義変えなきゃ。もとから私のものなのだから。・・・」

「相続人・・・、別にもう一人、いるみたいですよ。ほら、ここ、ここに『養子縁組』って書いてあるでしょ。」

「養女の○○子は、もういないよ。それにあの子は離縁したよ。関係ないわ。」

「確かに、離縁していますね。ご主人が亡くなられた後に。ただ、それは貴女との関係の話ですよ。相続には関係ない。」
「ご主人と養女さんの関係には変わりはないです。親子関係があるのだから、相続人です。」

「あの子は亡くなったよ。もう、いない。」

取り寄せた養女の記載がある戸籍から彼女の死亡が明らかとなる。
○○子には結婚し子供もいるようだ。

「ご主人が亡くなられた後に養女の○○子さんは亡くなっているので、貴女の名義にするには○○子さんの相続人の協力が必要です。」
老婆は、この手続きの完了時までに何度となく遺言の方法を聞きにやってきた。
それでいて、手続きが終わり登記済証(いわゆる権利書)を渡す旨の連絡をしたところ、「今日は、按摩に来てもらうので、出かけられない。後日取りに伺う。」と言ったきり、しばらくの間、連絡が途絶えた。

モンペのようなズボンに薄い長袖のシャツ姿、はっきりと背骨の歪みがわかる容姿を目にすると永い苦悩の人生に疲れ果てているようにも思える。
「今度は、公正証書遺言をつくりましょうね。」
そう、話しかけたがこれといった反応はなく老婆は登記済証を無造作に持ち立ち去った。

その後の老婆の人生(物語)はどのようなものだったのだろうか。
老婆は夫のことは話したが養女について語らなかった。
養女の相続人とも特に問題なく連絡がとれる様子であったのだが・・・。

夫の所業を語る様子と養女の名を口にした時の様子の違いが印象的だった。
夫と養女の間に何らかの問題があったのだろうか。
いや、老婆との間に何かあったのだろうか。

無理やり物語をつくるなら、それはどのようなものなのか・・・。

老婆のその後の消息は不明である。老婆には相続人はいない。

Contact

お気軽にお問い合わせください

泉水司法書士事務所

〒658‐0072 神戸市東灘区岡本三丁目2番17‐110号

お電話でのお問い合わせ

078-414-2270

受付時間 9:00~18:00 (平日)

メールでのお問い合わせ

問い合わせフォーム