心にのこる物語

生きているうちに

物語(日常茶飯事) 2009年10月31日

ひとり暮らしには丁度良い大きさに感じられる湯船につかると、ビニールに包まれた目覚まし時計が目に入る。

蒸し暑かった一日の終わりに丁度良い湯加減かと思えるが、どうにも落ち着かない。

しばらくの間、時計を眺めていたが、思うほどに時間は経過しない。
おびえたような表情で、ゆっくり顔の向きを変えながら辺りを見渡す。

窓はない。
そして、何の音も聞こえてこない空間。
『ひとりには、寂しすぎる空間』そのように思えた。

少し離れたところに同じくビニールに包まれた携帯ラジオが寂しそうに座っている。

「湯加減は、いかがです。」

しばらくの沈黙の後、

「はい、ちょうどよい加減です。」との返事が聞こえる。

細長い※三戸連棟式住宅の間口の狭い中間に位置する家の奥に風呂場があった。

※いわゆる2戸1(にこいち)のような連続建ての住宅の一形態で、外見上は連続建てであるが、一戸建てのような独立性が高く通常の戸建てよりは安く取得できるため、一時期多くの販売がなされたようである。しかし、あくまでも連続建てであるため、古くなればその修理・改築・建て直し等で問題が生じやすく顧客に迷惑をかける可能性の高い建物とも言える。

ずいぶん、古い建物でありながら、不思議なくらいに綺麗な風呂である。
今日は、蒸し暑い真夏でも特に暑さが厳しかっただけに、困惑はしているもののありがたい風呂ではあった。
しかし、汗だくの下着を着るのも辛いと思いながら、風呂をあがると新しい男ものの下着がそこにあった。

「男の人今はどのような下着なのでしょうね。お店の人に聞いて買ってきましたので、大丈夫だとは思うのだけど、どうぞ遠慮なく着てくださいな。」

『どのようにお考えなのか?』、『どのような魂胆か?』と不安になり、しばらく動けなかったが、このまま裸でいるわけにもいかず、意を決して新しい下着を身につける。

「さあ、お召し上がれ。」
「一人暮らしの年寄りの作るものだから、お口にあうかはわかりませんが、どうぞ。遠慮なく。」

卓袱台(ちゃぶだい)には分量はわずかずつではあるが驚くほど多くの惣菜が並んでいる。

「ビールで良かったですか。」

と言って、コップにビールが注がれる。

「さぁ、さ、お召し上がれ。遠慮しないで沢山食べてくださいな。遠慮いりませんよ。私は、もう、食事すませてますから、さあ、どうぞ」

家の中央に位置するこの部屋には窓がない。
老婆と男が卓袱台囲み食事をする様子は、何とも、不思議な空間である。
『戦前の日本にタイムスリップしたとしたら、こんな感じだろうか。』
そう、思いながら、ビールを勢いよく飲み干す。
その様子を楽しそうに眺めながら、

「失礼とは、思ったのですがこの暑さでしょ。食事をしていただく前にお風呂にはいっていただこうと思って、・・・」
「男の人は、風呂上りの一杯が楽しみなんでしょ・・・」

そう言ってから、しばらくの沈黙が続く、互いにどのように話を続けるべきかと悩んでいるような、沈黙の時間が続く。
突然、身を乗り出して

「お風呂が古くなって、汚れてたら恥ずかしいと思って、半年程前に少し手を加えてもらったのよ。」

そう言ったきり、また、沈黙が続く。
きっかけを求めるようにビールが、また、注がれる。

「どうしても、お礼がしたくてね。・・・」
「50年近く待っていたのですよ。家の名義が私になるのを・・・」
「今年、市役所から私の名前で通知がきたの、私の名前で固定資産税を払うのです。」
「生きている間に、私の名義にしたかった。もう、何も思い残すことはない、そう、思っているの。」

少し、姿勢を立て直し

「これだけ、歳をとると考えるのは死ぬことばかりで・・・。」
「何のために生きているのかって、・・・。」
「私、幾つに見えますか。」

どのような回答を期待しているのかと思いながら、淡々と答える。

「90歳ですね。90歳とは思えない。本当なのだろうかって、今も思っています。」

想像した答えではなかった様子で、

「あら、どうして歳がわかったの?」
と聞き返す。

「私が依頼を請けた仕事は、生前売買による移転登記です。」
「それも、売主さんも、買主さんも死亡後に行う売買の登記です。」
「そして、買主さんの配偶者たる貴女への相続登記ですから、・・・」
「印鑑証明書に明治39年と記載されていましたら、驚きました。」
「平成の時代に明治の方がお一人で暮らしているとは、どうにも、・・・未だに信じられない気持です。」

明治39年、それは丙午の年である。
この年生まれの女性は気性が激しく、夫を尻に敷き、夫の命を縮める(男を食い殺す)という迷信を思い出す。
明治39年の丙午生まれの女性の多くは、この迷信のため、丙午生まれという理由で結婚できなかったと言われている。
『この人も迷信があたったかのように結婚後しばらくして夫を失っている。』
手続きを進める時に、迷信を信じない自分がそのようなことを思ったことを思い出し、自嘲しながら、今度はゆっくりビールを口にする。

「実は、できるはずがないとは思っていたのですよ。今までにも弁護士さんや司法書士さんに依頼しましたからね。誰も登記できなかったから、今度もできないって思っていたのです。最初は信じていなかったの。疑ったお詫びの気持ちもあって、・・・」
「生きているうちに、私名義の通知書(納税通知)を見てみたかった。」
「もう、思い残すこと、ないわ。」
「お陰さまで耳は少し遠いけど、一人暮らしでもやってこれたので、このまま一人で人知れず死ねればと思っているの。」
「さすがに、これ以上は生きられません。そう、思って、・・・。」
「見てくださいな。何もないでしょ。綺麗に片付いているでしょ。」
「死んだ後、発見された時に色々見られたくないの。身綺麗でないと惨めだわ、だから、お風呂も直したのよ。」

さて、どう答えればよいのか、・・・

「先のことはわかりません。まだ、まだ、見た目お元気そうですよ。」
「昔話、聞かせてください。ゆっくり、話して下さい。昔のこと聞くの大好きですから・・・。」

老婆は「お強いのでしょ」と言いながら、ビールを継ぎ足し、ゆっくりした口調で話しだす。

「10年前にね。癌で胃を全部とったのよ。」
「10年も生きれるとは思っていなかった。」
「見てくださいな。それまでの私はこんなにポッチャリしていたのよ。」
「荷物を整理していたら、写真がでてきて、こんなにふっくらしていたの。これも捨てなきゃっね。」
「胃がないとね。一遍にたくさんは食べれないの。だから、食事済ませたの。少ししか食べませんから。」
「そうそう、一つだけ、不満があるので、伝えたいとも思っていたのよ。言わせて下さいな。」

意外な言葉に不安を感じていると、

「戸籍がね、全部戻ってきたでしょ。何でもどってくるようなものを取る必要があるのって、思って、全部捨てていいですか。」

これは、なんとしたことか。
都会地での手続きでは、相続登記に添付された戸籍(除籍・原戸籍)等は司法書士等の作成する相続関係説明図を利用することにより登記所(法務局)から原本を還付されるのが通常である。

「戸籍は添付書面ですから、提出が必要なのだけど。手続きが終われば還付されるのが通常なので、そのようにしたのですが、古い戸籍はいずれ保存期間が過ぎるととれなくなるので、いつもお返しているのですが、・・・」

司法書士としては、当然と思っていたこの行為に何が不満であるのだろうか。

「私には子供もいないし、兄弟もとっくに亡くなりましたから、甥も、姪も、亡くなってますから、もう、一度聞きますが、私には相続人はいないのですよね。」
「主人の関係の戸籍、返してもらっても、私には何のかかわりもありませんから、・・・」

私はいつものように潜在意識には残しながらも記憶から消しつつ、夜が更けるまで、老婆の話を聞き続ける。

最終電車を待つホームで、何故か、涙がこぼれ出す。
理由は不明である。

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